15 アルド・ロッシのこと



1979年ニューヨークIAUSで開かれたアルド・ロッシのドローイング展カタログ

《1975年10月17日 金曜日 チューリッヒは朝から雨。午後6時過ぎ空港へ。あっという間にミラノに着いた。空港にはヴィットリオ・グレゴッティ事務所に勤める松井宏方さんと、ミラノ工科大学でアルド・ロッシの生徒だったクラウディオ・マネリが出迎えてくれた。ミラノはチューリッヒとは何もかも違った。騒がしい喧噪とすさまじい食欲に圧倒された。ドゥオーモ広場の前の「ギャレリア」の喫茶店に座って道行く人を見ていると、ミラノの人々の陽気さも、気楽さも、騒がしさも、実は自らの過去の文化の重みを支えるためなのではないかとさえ思われた。》
 《10月18日 朝のドゥオーモ広場を散歩する。クラウディオと一緒にアルド・ロッシのオフィスへ行く。ロッシとは初対面だった。彼の目がぎょろりと光った。にこりともせず、静かな表情で、薄い唇から、ゆっくりした口調で話した。》
 小さな、だが分厚い本を貰った。1956年から1972年までに書かれた論文の選集だった。
 クラウディオに案内されて、ガララテーゼの団地に行く途中、ミラノの伝統的な円形集合住宅を見た。中庭を囲んでギャラリーがあった。ガララテーゼの集合住宅は、長さ180m、4階建て、コンクリート造、モルタル仕上げの建物だ。地上階には列柱が整然と立ち並ぶミステリアスな、どこかファシスト風な様子だった。クラウディオはガララテーゼの集合住宅は伝統的円形住宅を直線状に引き延ばしたものだと説明した。
 1976年5月号『a+u』のアルド・ロッシ特集号「アルド・ロッシの構想と現実」では、ガララテーゼの集合住宅を掲載した。ロッシの執筆した論文「類推的建築」と、相田武文さんの書いた批評「沈黙から」がことのほか好評だった。「沈黙」の建築というもっともらしい賛辞は当時の新聞紙上にも引用された。
 1980年の初め、アントニオ・マルチネッリから、ロッシがヴェネチア・ビエンナーレのために設計した「世界劇場」の素晴らしい写真が送られてきた。それを見ると、劇場は筏に乗って、ヴェネチアからアドリア海を渡り、ドォヴロクニックへと航海していた。そこで、『a+u』1980年3月号では、マルチネッリの写真で「世界劇場」を巻頭特集とした。
 そしてこの年、再びチューリッヒからミラノへ、今度は列車で行った。リヴァ・サン・ヴィターレを通過する時、湖の向こうに、マリオ・ボッタの設計した住宅が見えた。ミラノへ着いて、早速、アルド・ロッシに会った。その時は家内をつれていたこともあったのだろう、ロッシはひどく優しかった。笑顔を見せ、冗談も言った。「この前とは違うレストランへ行こう」。美男のクラウディオも一番弟子のジャンニ・ブラギエッリも同道した。旅行中家内を悩ませた食事ノイローゼはロッシが連れて行ってくれたレストランですっかり治った。そして、そのロッシがとうとう日本にやって来た。
 《1984年9月24日 アルド・ロッシがやって来た。「約束どおり持ってきたよ」と2本のヴィーノを差し出した。夕食に天麩羅屋に連れて行った。大喜びで、烏賊の塩辛をお代わりした。》
 《9月25日 5時半、ロッシをホテルにたずね、二人で新宿に行った。歌舞伎町を案内し、西口の思い出横町に行った。ロッシは、「こういうところに来たかったのだよ」と言いながら、左右の飲み屋を一軒一軒覗いた。飯台に箱酒を積み重ねた店を見ると、「ここに入ろう」。どっかりと床几に腰を下ろし、一気に箱酒をあけた。「こういうところはさっと立つもんだよ」。一体、この人は誰?》
 この時ロッシにはコンペの審査やら、東大や芝浦工大での講演やらの日程があった。
 《9月26日 3時過ぎ、ホテルにロッシをたずね、日比谷へ出た。どこかへ案内しようかと言うと、「いや、結構。丹下の建物も黒川の建物も結構。槇にも磯崎にも会いたくない。それよりも街を歩きたい。街の雰囲気を感じたい。建物のファサードの背後にあるものが大事だから」と言った。二人で銀座を歩いた。》(つづく)


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