『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』 渡辺豊和 著

第二部 毛綱モンちゃんの異形

向井正也先生/給水塔の家/日吉台教会/反住器/宇宙庵/花園村の女陰館/京都の旅館/和歌山の家/釧路市立博物館/鏡の間/禅寺/中野のアトリエ

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向井正也先生


 毛綱毅曠と最初に会ったときのことはよく覚えている。毛綱の名を知ったのはRIA在籍中である。芝野和子さんは大阪RIAでははじめての女性スタッフであったが彼女の大学の同級生有村桂子さんが神戸大学大学院に進学していてその有村さんが変った助手の噂をする、それが毛綱だったわけである。毛綱のお姉さんの家、「北国の憂鬱」が『都市住宅』に発表された六九年にはすでに毛綱には会っていたと思う。芝野さんがこの発表記事を私たちに示してまるで我事とばかりに自慢する。これには辟易とした。「北国の憂鬱」なる命名には衝撃を覚えた。学生時代以来延々と建築を文学的に展開しよう、物語を書くように建築をつくろうと考えてきたからこれには先にやられてしまったかとうめきたい気分であった。ともあれRIAを辞したときにはもう知己となっていたから多分六九年の五月か、六月のことであろう。私はこの年の四月に近畿建築士連合会の機間誌『ひろば』の編集委員になった。四月の最初の会合で編集長だった西沢文隆さんからもっと上位の編集委員になれと指令されたがそのとき副編集長の向井正也神戸大学教授とも知り合った。帰り道に向井先生から「あなたに紹介したいものがいる、会ってやってほしい」と頼まれた。一週間後に大阪淀屋橋のうなぎ屋「阿弥彦」に先生はむさくるしい格好の男を連れてきた。これが毛綱だった。このとき『ひろば』の編集事務担当だったのが田中成幸であり同席したがこれがきっかけで毛綱と田中、私の交友がはじまる。毛綱、田中ともに私より三才下。このとき私は三〇、彼らは二七であったがすぐに三人とも一つ年をとることになる。私が八月だが毛綱が十一月田中が七月の生れだったと気憶する。彼らが三〇才になるまでの間、この二人に「三〇男」とよくからかわれた。

 さてこの日以降私や田中さんにとって毛綱モン太はモンちゃんとなった。これは彼が死去するまで変らない。
 雑誌『都市住宅』(六九年一〇月)で紹介された「北国の憂鬱」は極めて構成的な作品だった。建築を気楽に「作品」と呼ぶのには抵抗があり現在でもほとんどそうは呼ばないのだがモンちゃんのものは違っている。まさに作品というしかない芸術性が濃厚に漂っている。この「北国」以来ある時期まで彼の建築は作品でありつづけた。私よりも三才年若なのにこの構成力は何なのだろうと不思議でならなかった。L型に個室を配しそのLの端と端を繋ぎ三角形平面をつくりそれが居間などの大空間となる。L型の一辺は平屋、もう一辺は二階で平屋の個室群には小さな丸窓しかなくアクリドームのトップライトが一つずつとりつけられている。光はこれのみというわけだ。この暗さが「憂鬱」なのだろう。庇なしの片流れはこのとき一世を風靡したチャールス・ムーアの木造住宅群コロニアルスタイル「シーランチ」の影響がストレートにあらわれている。しかしモンちゃんはこのときでも非凡さを発揮している。平屋の屋根は片流れではあっても極端な緩勾配。三角平面の大空間の屋根と二階の屋根、ともに庇なし片流れには違いないが表情がまるで違う。三つの片流れ屋根の共演といった趣きである。確かな造形力、構成力は現在の眼でみても充分に高レベルに達している。処女作でこれなのだから末恐ろしい。これが私がモンちゃんに抱いた最初の印象だった。それに比べ九年も修業したのに私には何ができるのだろうかと自らを疑うしかなかった。それと向井正也先生。

 私はこの頃から建築学会の大会や支部発表会に論考発表をはじめたが向井先生に誘われたせいだったと思う。向井先生の建築認識は極めて具体性に富み明快だった。それでいて詩情を伴うのであるから聞いていてここちよかった。近畿支部の歴史意匠部会は京都大学の増田友也一派が主流で、彼らの論考はまるで哲学、具体的建築空間が対象にはなっていなかった。但し増田友也御本人はさすがしっかりしていたのは断るまでもあるまい。ともあれ現象学に立脚しているのはいいにしてもまるで理解していなくてナマな哲学用語が大概誤用されているのだから聞くに耐えない。同じ森田慶一門下なのに向井先生は違う。「ヴォリューム」「空間のスケール」「テクスチュア」「対比」など近代建築の形式特徴を明らかにしそこから現代建築の進むべき道を探求していた。コーリン・ロウに近い論の展開だった。ロウから影響を受けていたかどうかは不明である。「建築のマニエリスム」というのが当時先生が掲げていたテーマだった。先生は渾身の力をこめて近代主義の晩鐘を鳴していたのである。

 ロウは一九五〇年に「マニエリスムと近代建築」を「アーキテクチュラルレヴュー」に発表していたようだから先生にその影響がなかったとはいえない。しかし先生の該博な知識からすればマニエリスムと近代主義が結びつくことさえ気付けばあとは自在に論を展開できたはずである。古典主義とバロックの間にマニエリスムがはさまりパラデオはその代表的存在であるとよく聞かされた。先生にすれば正統近代主義が古典なのである。バロックはいまだ姿をみせない未来の形式であるならば現代こそマニエリスム的様相を呈している。というよりマニエリスム的にこそ展開すべきだといっているのだった。

 先生はどこかにある高名な建築家はマニエリストだと書いたらその建築家はすかさず「俺はマンネリズムか」と怒ってきたという。直接怒ったのではなく弟子にそう聞いたのだったかもしれない。優秀な弟子はマンネリズムとマニエリスムの違いを説明し必死になだめたらしい。
 マンネリズムはマニエリスムから派生した概念ではあるが意味は違う。先生は苦笑してこうモンちゃんと私に教えた。モンちゃんと親しくなったついでに先生のもとによく通うようになったので先生は私も弟子のうちの一人と思うらしかった。ともあれ一九五〇年のロウの論は建築家からほとんど無視されたらしい。当時にあっては近代建築批判ととられたに違いない。コルビュジェの処女作の住宅が極めて古典的でありこれから近代主義が発生するから近代主義そのものが極めてマニエリスム的に展開した。これがロウの主張であるからそれを読んでコルビュジェらの近代主義者が機嫌いいはずがない。

 向井先生がマニエリスム論を展開しはじめるのは六〇年代半ばからである。この頃になると日本ではメタボリズムグループの結成と黒川紀章の台頭、ヨーロッパでもスターリングなどが活躍しはじめ明らかにマニエリスム的様相を呈してきていた。歴史学者として先生はそこをとらえた。先生の認識は明確であった。
 モンちゃんには「マニエリスム」が刺激だったはずである。彼の「北国」も先生の近代主義に対する目差しを敏感に受け止め表現してみた結果だったに違いない。だがこのままでは温和である。私との二人三脚はこの直後にはじまる。それを指導するのが向井先生だが多分私自身の論理好きしかも極端好みの性分は二人に刺激になったであろう。近代建築の過激な変容。これが彼と私の当面の目標となった。

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