◆アドルフ・ロースとはだれか

アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870-1933)
19世紀末から20世紀初頭にかけ、ウィーンを中心として活動した建築家。
同時に世紀末ウィーンにおける近代文化の批判者としての側面をもった。初期モダニズム建築の巨匠となるコルビュジエやミース、ライトらより一世代前の生まれ。
1908年に執筆された論文「装飾と犯罪」(Ornament und Verbrechen)は、装飾を犯罪行為と言い切り、その過激さゆえにロースを一躍有名にした。到来する近代に対する洞察の圧倒的鋭さによって後に多大な影響を与えたにもかかわらず、あるいはその早さゆえか、ロースはモダニズム移行期の人物として常に過小評価されてきた。

1870年、モラヴィアの地方都市ブルノに生まれる。ドレスデン工科大学に学ぶが一年で中退。シカゴ・コロンビア万国博覧会訪問のため1893年単身渡米。皿洗いや新聞記者の見習いなど、様々な職種で食いぶちを稼ぎながらアメリカに滞在する。1896年、三年間のアメリカ滞在の後、イギリスを経てオーストリアへ帰国。ウィーンにて建築家としてのキャリアを開始するが、この頃同時に建築にとどまらず広く文化・芸術・風俗を批判する批評家として活動し始める。アメリカ・イギリス滞在中に得た知見を紹介しつつ、爛熟したウィーンの世紀末文化を批判した。
 


初期の代表作に、ウィーンの芸術家たちのたまり場となったフリードリヒ・シュトラッセの「カフェ・ムゼウム」(1899)、アメリカ星条旗をそのファサードにかたどったケルントナー・シュトラッセの「アメリカン・バー」(ケルントナー・バー・1908)、そして「あまりに装飾がないため」という前代未聞の理由で建設当局に建設禁止処分をうけた、いわく付きの建築「ミカエル広場の建物」(ロースハウス・1910)などがある。

第一次大戦後、ロースはウィーン・ジードルンクの主任建築家となるが、1924年には辞任。事務所の関係資料を全て焼却し渡仏する。戦後の代表作としては、ダダの詩人トリスタン・ツァラの住宅「トリスタン・ツァラ邸」(1925)、パリ風俗界の大スターとなった混血黒人ダンサー、ジョセフィン・ベーカーのための妄想の住宅「ジョセフィン・ベーカー邸計画案」(1927)など。晩年、ウィーンに帰還したのち、住宅としては複雑に多くのレベル差が交錯する一連の住宅を計画する。「装飾犯罪論者」ロースにふさわしい白いプレーンなファサードの内側に、対照的な色彩やディテールに満ちたインテリアが折り畳まれたこれらの住宅は、晩年の傑作ミュラー邸(1928)においてその頂点を見た。この手法は後にロース自身による呼称ではないもののその弟子によって「ラウムプラン」と呼ばれ、ロースの建築の代名詞となるが、その成果はいまだに回収未了の可能性を秘めている。

その洞察が鋭すぎたためか、単に生来の性格が災いしてか、その生涯においてロースは常に論争・誹謗・スキャンダルの渦中にあった。建築においては当時ウィーンの主流派であったヨーゼフ・ホフマンらを攻撃し、また絵画においてはクリムトらのゼツェッション(分離派)を批判した。圧倒的に多くの才能を輩出した世紀末ウィーンにおいて、ロースの槍玉に上げられた被害者を数えれば枚挙にいとまがない。だが他人に対する口舌の鋭さは、同時に建築家という自身の職能に対する倫理観の強さの裏返しであった。犯罪という言葉が「誰もが感じているが手をださないこと」に触れてしまうことの謂いだとすれば、近代建築史上ロースほど犯罪的にして、同時に倫理的であった建築家もいない。事実、敵と同時に信奉者も多かった。建築の教え子としてはルドルフ・シンドラーや、リチャード・ノイトラ、あるいは芸術家のフレドリック・キースラーがいた。また思想上の影響を与えた最も重要な人物としては、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインがあげられる。。ヘルマン・バール、アルバン・ベルク、オスカー・ココシュカ、カール・クラウス、アーノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルン、エツラ・パウンドなど??ロースの60歳を記念して出版されたアンソロジーの寄稿者のリストは錚々たるものである。
アドルフ・ロースの思考は、21世紀を迎えたいまも起爆装置の外れた爆弾のように不気味に眠りつづけている。




◆「虚空へ向けて(INS LEERE GESPROCHEN)」とは?

アドルフ・ロースの著作は現在ドイツ語圏において三巻本の全集として刊行されている。
それらはロースの生前に著者自身のセレクションのもとに出版された論文集二冊、および死後にそれ以外の遺稿を集めた補稿集である。編集出版組織体アセテートでは今後これらすべての著作を、売っては発行資金を回収しながら継続的に発行する予定としている。
本書『虚空へ向けて』の底本Ins Leere Gesprochenは主に1897年から1900年までのわずか4年、それもロースの批評家としてのキャリアの最初期に書かれた論文を集めたものであり、ロースの存命中に発行された(1921)。
1898年、アメリカから帰国した後、設計の仕事の傍らにぼちぼちと批評の仕事をこなしていた27歳の青年ロースに大きな仕事が舞い込む。この年、ウィーンでは1848年3月の革命??つまり皇帝フランツ・ヨーゼフの即位50周年を記念する展覧会が開催される。ロースはこの一大国家事業のレビューを半年にわたり連載する機会を得るが、この連載こそが本書『虚空へ向けて』のヴォリュームの中心をなすものである。ウィーンにおける都市生活を近隣諸国に知らしめるという国揚的な性格をもった展覧会のレビューという条件も手伝い、結果からみれば論考の題材となったのは工芸、家具、インテリア、そしてファッションといった、当時転換期にあったウィーンの近代的都市生活を「装う」様々な意匠についてであった。
執筆当時、ロースは本書『虚空へ向けて』のタイトルを現在とは別のもの、『近代的神経とその装い』として構想していた。数々の非建築的題材のなかでも、当時のロースの関心を最も占めていたのは明らかにファッション(=モード)の問題であり、そしてそれは後のロースの問題構成を一挙にカバーする題材だった。ロースにとってモードは近代的神経の症候を最も端的に表す指標であった。
 


本書を一読してなによりも目に付くのは、ロースの圧倒的に論争的なテンションである。しかし、ヨーゼフ・ホフマンに対する歯に衣を着せぬ論難がロースにもたらしたのは、出版社からの刊行拒否の通知だった。
1921年、執筆当初より20余年の歳月の後に本書が「虚空へ向けて」という新たなタイトルのもとにようやく出版される運びとなったとき、ロースは盟友カール・クラウス(1874-1936)の言葉を思い浮かべたに違いない。「なにか言うべきことがあるものは、一歩前へでて、沈黙せよ」。クラウスにとって世紀末ウィーンとは驚くべきがらくたにまみれた世界であったが、同じ世界がロースの目には恐るべき空っぽに映ったに違いない。世紀末ウィーンに生じた巨大な空隙を埋め尽くさんとする圧倒的な悪態のヴォリューム、それが本書『虚空へ向けて』である。

◆『虚空へ向けて』目次

 ●はすべて本邦初訳
 初版への序文...● Vorwort Zur Erstausgabe...●
 第二版への序文...● Vorwort Zur Zweiteausgabe...●
 美術工芸学校の学校展覧会...● Schulausstellung Der Kunstgewerbeschule...●
 オーストリア美術館におけるクリスマス展示...● Weihnachtsausstellung Im Österreichischen Museum...●
 美術工芸の展望1...● Kunstgewerbliche Rundschau I...●
 美術工芸の展望2...● Kunstgewerbliche Rundschau II...●
 オーストリア美術館におけるイギリス派...● Die Englischen Schulen Im Österreichischen Museum...●
 ジルバーホフとその界隈...● Der Silberhof und Seine Nachbarschaft...●
 紳士のモード...● Die Herrenmode...●
 新しい様式とブロンズ産業...● Der Neue Stil Und Die Bronze-INDUSTRIE...●
 室内...● Interieurs...●
 ロトンダの室内 Die Interrieurs In Der Rotunde
 椅子...● Die Sitzmöbel...●
 ガラスと陶土...● Glas und Ton...●
 デラックスな馬車 Das Luxusfuhr Werk
 鉛管工...● Die Plumber...●
 紳士の帽子...● Die Herrenhüte...●
 靴...● Die Fussbekleidung...●
 靴職人...● Die Schuhmacher...●
 婦人のモード...● Damenmode...●
 建築材料 Die Baumaterialien
 被覆の原則 Das Prinzip der Bekleidung
 下着...● Wäsche...●
 家具...● Möbel...●
 1898年の家具...● Die Möbel Aus Dem Jahre 1898...●
 印刷工...● Buchdrucker...●
 オーストリア美術館における冬期展覧会...● Die Winterausstellung Im Österreichischen Museum...●
 オーストリア美術館の散策...● Wanderungen Im Österreichischen Museum...●
 ウィーンのスカラ座...● Das Scala-theater In Wien...●
 メルバとのステージ・デビュー...● Mein Auftreten Mit Der Melba...●
 ある貧しい裕福な男について...● Von Einem Armen, Reichen Manne...●
 あとがき...● Nachwort...●


◆なぜ「非建築」論か?

講演をもとにした論文「装飾と犯罪」は、モダニズム建築における装飾の排除を言明したものとして一般に理解されがちであるが、しかしこの理解はロースの思考の射程にとっては片手落ちである。なぜならロースの著作において、いわゆる建築論の比率はきわめて少ないからである。「建築家」ロースの言葉を、非建築論として再読することが求められている。
「装飾と犯罪」で、ロースは日用品からの装飾の排除を説いた。しかしそれは、芸術における装飾の根源性と、同時にそれが避けがたいことを彼が深く意識していたからである。造形芸術の起源を犯罪者の刺青や便所の卑猥な落書きに求めるロース。彼はそれをヒトに本来的な、エロティックな衝迫として認めつつ、しかし同時にそれを近代人においては克服されるべき欲動として断罪する。人間の本性を超えようとする超人理論としての「装飾と犯罪」。近代芸術における装飾をめぐる問題はロースによってケリをつけられたどころか、この論文によって初めて設定されたといってよい。
 


「装飾と犯罪」はスタイルばかりを気にする浅薄な建築デザイナーや一部の専門家にむけて書かれた建築論ではなかった。ロースにおいて、建築とは生活を構成する人間の文化の構築そのもののことであり、建築家とはその一領野を担う専門家の一人である。ロースの話題といえばむしろ近代生活を形作るさまざまな生活習慣や風俗についてであった。こうした生活のディティールこそが、文化、そして建築を構成しているのである。だから彼は建築を建築として語らず、むしろ非建築として語ったのではないか。それが私たちの将来の読者へ向けての問いかけである。
収録予定の論文「紳士のモード」(本邦初訳)においてロースは、モードとは「むしろそれは人がいかに目立たないやり方で装うかという問題なのだ」と語る。あるいは「装飾と犯罪」と並べて読まれるべき重要論文「淑女のモード」(同上)において、(強姦、濫行、およびそのほか極度な猥褻にかかわる問題についての条文である)「刑法125条から133条にいたる条文は僕たちにとってもっとも信頼できるモード誌だ」とロースが指摘するとき、後に「装飾と犯罪」に結実するロースの思考の土壌は、ここにおいて既にその萌芽をみていた。
これまで日本において紹介されてきたロースの著作は主に建築およびその周辺の造形論に関するものが主であった。しかしこうした文脈において再読してみれば、ロースの建築的思考を具体的に論じたほぼ唯一といってもいい既訳論文「被覆の原則について(Das Prinzip der Bekleidung)」でさえ、「衣服の原則について」と読み替えてさしつかえないことに読者は気づくだろう。