2001年の秋から2004年の初夏にかけて、私は金刀比羅宮の仕事に集中した。
ただでさえ仕事が遅いということになっている私が、あの規模で、しかも際立って難しいロケーションで、設計と施工の期間を合わせて、たったの3年足らずで終わらすことが出来たことは、いま思い返しても不思議だ。この仕事に関わった人たちすべての力がそうさせたことはもちろんだが、しかしそれだけではあの現実離れした夢のような時間を伝えるには、まだ何かが足りない。切迫さ。とはいえ、余裕を欠いた緊迫とは違う。そんな名付けようのない切迫が、この仕事には常に有り続けた。

土着のそれぞれの神の信仰に端緒をもつ神社は、日本に極めて多く存在する。そんな多種多様な神社のなかでも、とくに金刀比羅宮は民衆信仰のメッカとして、親しみを持って全国に知れ渡っている。日本が国民国家としての形を持とうする近代以前には、日本の宗教である神道も仏教も、違和感なく混ざり合った状態であったことが知られているが、そんな開かれた雰囲気と寛容さは、境内の風景や建物からも十分に感じとれる。

金刀比羅宮を訪ねたひとにとってなにより印象的なのは階段だろう。麓の門前町である琴平の庶民的な参道の商店街から始まって、雄大な稜線が象の額に似た象頭山の中腹に位置する本宮に至るまで断続的に続く階段の繋がりは、ほかでは経験できない魅力を持つ。山の緩急、起伏、勾配を十分に考慮しつつ、折れ曲がりや直線を使い分けて、最後まで一時も飽きさせることはない。まるで階段の、数え切れないシークエンスによって組み立てられた映画のようだ。

ところで私が設計に携わったのは、そんな広大な拡がりのうちで、本宮の建ついわゆる「神殿ゾーン」と位置づけられた一帯であった。目の前は谷に下る絶壁であり背後には手つかずの自然が繁茂する山の急斜面が迫る、幅は極めて狭いが長さは端から端まで300M近くはある、ほとんどフラットなスペースである。しかしそこには、本宮や三穂津姫社をはじめ、見事な歴史的建造物がすでに幾つも建っていた。野生と伝統が最初から待ちかまえている。

このような環境のなかで、しかも今この時、いったい何ができるのだろうか。

はじめて、敷地の調査として接したときには、イメージが浮かぶどころか、ただ圧倒されるのみであったこの場所に、何事かを見い出し、かつ実行した3年間のプロセスの断片が、このスケッチブックのページのなかにある。
今では、描いた自分にも意味不明のところが多く見受けられるそれぞれのページのなかに、何を読みとることも自由だろう。ひとに見せようなどとは一度も考えたことのない建築の余白に過ぎず、その意味では物質的だ。
ただ願わくば、ページの間にたたみ込まれたあの時の切迫が、ほんのかすかにでも感じとれますように。