「…(つづき)蹴られた石ころがどこに転ぶか、撮影者である写真家にもわからない。それは行く先を占う護符なのだ。」田中純「都市表象分析20 自然の無関心」『10+1』No,38
田中純氏のきわめて奥深い風景写真論を読む。しかしこの写真論は同時に建築論としても、あるいは写真家のことを考えてみれば建築家論としても読めるべきものだと思った。
(『建築批評』の感想を書いているので、参照として当日記にて書いてみました。)
風景写真とは人間が人間のために写しとろうとする「自然」である。しかしながらそのプロセスには(撮りたくなくても不可避的に)写しとられてしまう、自然の、私たちに対する「無関心」が併存する、と田中は指摘する。たとえば被写体であるところのドクガエルそのものはその皮膚の危険な美しさについては無関心なのだ。私たちが関心を持つだけである。
(もっと良い例を思い出したので、追記しておきます。ちょうど休みに水族館に行って深海魚を眺めていました。その繊細さに魅了されていたのですが、良く考えたら真っ暗な深海の中では彼らにとってそれは「無関係」のことなのですね。0406)
写真がとらえるこのような無関心としての自然を、建築家にとっての都市に置き換えてみても、僕はほとんど間違いないと思う。
つまり建築家の定義は明白である。建築家とは人間以外をも扱いうる職能なのである。故・丹下健三はそういう存在であったと確信する。僕が田中純そして少数の論者以外の建築論、あるいは建築家論を読む時、大いに不満を持ってしまうことが多いのは(ほとんど憤りに近いのだが)、それらがあまりにも人間的にすぎるということだ。
「人間」とは私たちが操作可能だと思い込んでいる領域のみにこだわっているということ、こだわっていれば事足りるということ。建築はそういう「人間」のためだけにあるのではない。むしろ人間のためにあることの方が少ないと考えたほうが知見が拡がる。
そういえばアレグザンダーのパタン・ランゲージはきわめて人間的、民主的なものと思われがちだ。しかしそれすべてを「人間」に含み込んででとらえようとすることは誤解なのだと僕は思う。それは人間がどう思おうともほぼ自動的に生成してしまう風景の美(それは無関心に近いだろう)を語ったものなのだから。
人間の内部にも人間に対する無関心としての人間が存在している。