忘れないうちに、世の中との共同作業をきちんとまとめておくページ
2003年ぐらい以降の成果物を記録していきます
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中谷礼仁

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NAKATANI Norihito from 2004.
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住まいの先生, 2001

中谷礼仁


Q:住まいづくりに建築家は必要か?

A:原理的には必要ありません。でも先生と呼びうる存在は必要です。

解題: 住まいには住む人(住もうとする人)がいます。もし彼が自ら住まいづくりを行った場合、それに必要なのはまさに彼だけです。
 ところが住まいには建てる人がいて、それをなりわいとしています。現状では請負業、すなわち住宅メーカーや在来の工務店といわれる人々です。住む人自身が持つ技術は、住まいづくりに対して往々に限られていることがありますし、四六時中建設作業に関わっていられないこともあり、彼らはその手助けをします。また人々がこみいって暮らしている都市部では、住まいづくりに対するそれ相応の共同的なルール、規制が成立するはずです。その規制が複雑なものになる場合、住もうとする人単独の処理能力を超える場合があります。その際にも、おそらく建てる人に所属する建築士が手伝ってくれるはずです。
 彼らは、所有者になる人の思い描いた住まいのイメージの実現化を手伝います。彼らの実現力にも限界はありますが、原則として所有者の意志を尊重するはずです。また建設作業は彼らが請け負っていますから、なんらかの保証も存在するでしょう。所有者にとって、建てる人に実現化を依頼することは、建設費用が増大するという決定的な欠点があるものの、建設の実際に関わる保証、社会的責任を彼らに担当させられる点が大きなメリットです。しかしこれらはいずれも住む人が、専門的知識を身に付け、社会的責任を全うすることができるのであれば不要です。もし請負業が社会的責任も保証も担当しているとすると、まず住まいづくりは住む人と建てる人だけで奇麗に完結してしまいます。では住まいづくりにおける建築家の役割とは何なのでしょうか。

一般に住む人が建築家に住まいの設計を依頼する理由を考えてみましょう。端的には、既存の住まい、ならびにそれが生産されるプロセスに彼が満足していない状況が考えられます。何らかの理由で、それらが住む器足りえていないと彼が感知している場合です。住まいにおける建築家の存在は、この住む人の不満足、直観に依拠しています。
住む人が期待し、建築家によって解決されるはずの、その不満足の種類は大きく二つに、そして決定的に別れます。
 一つは、彼らの思い描く住宅像をさらに正確に実現することを、住む人が望んでいる場合です。この場合の建築家の存立根拠は、住む人自身の期待像に見合っていない彼の建築的能力を補うことに求められます。しかしこのような状況は、双方にとって大変不幸であると言えます。住む人は本来自らが実現すべきはずの住宅像を、諸々の理由から実現できていないという悩みを抱えて、建築家にその代行を依頼しました。実はこの時点で、住む人は建築家にアンビバレントな愛憎の感情を持たざるをえません。一方で、建築家は依頼(信任)された者として、それなりの提案を行おうとします。この場合、両者にはいくつかの目標上のずれが含まれざるをえません。建築家は人の金で好き放題やるなどという住む人側の悪口や、住む人への説明とは異なる意図を建築家が往々にして隠し持っている場合が多いことは、全てこのような両者の基本的関係の矛盾から発生するものです。またこのような場合の治療法は、住む人自身が努力して建築的知識を身に付け、自ら図面を引くことで解決されてしまいますから、基本的に建築家は必要ないのだと言えます。
 二つめは、住む人が期待する住宅像とその実現を手助けする専門職(ひとつめの場合の建築家を含む)だけで成立してしまう住宅づくり自体に、住む人が不満足を感じている場合です。各人の好き勝手があわさって社会が構成されることに、人間は倫理的な不安を感じることがあります。それが本当によいことなのか、自分では決してわからないからです。もし自ら充分にこれから作る住まいのイメージが描けている人物が、あえて他人に設計を依頼する場合があるとするなら、そこにはこのような心理的機構が発動しているはずです。このような場合に要請された、建築家とは一体どのような存在なのでしょう。
 その場合においては、建築家は究極的には、住む人の代行や、線を引くこと、かたちを提案することや、社会的な保証を担当することが求められているわけではないかもしれません。そこで求められているのは、住む人と建てる人だけで完結してしまう住まいづくりに、いまだ気づかなかった公共性を挿入することなのです。
 その資格のある人たちを、人は先生と呼び、その必要性を認めていました。もちろんその公共性とは、建築家の方便としての既存の美辞麗句ではありえません。いまだ見えない、新しい公共性のために、線が引かれ、かたちが作られる場面も、きっとどこかに存在しているのです。建築家が、時たま「先生」と呼ばれる理由はここにあります。しかしながらその「先生」の役目は、「建築家」という単一の職業に求められるものでないこともまた、明らかなのです。


- 2004年06月25日 - 戻る -
注目の告知
●鹿島出版会から拙著『セヴェラルネス 事物連鎖と人間』が公刊されました。表紙装丁を、岡崎乾二郎さんにご担当いただきました。綺麗です。ぜひ公刊の際はお手に取っていただければ。序文は田中純先生です。

セヴェラルネス


「批評の真髄はどこにあるのか。歴史と理論を踏まえつつ、徹底的に現状を分析すること、必要とあれば時空や知の領域を自由に行来しながら、広い意味でのコンテクストを明らかにしてみせること、そこにこそ批評の意義は求められるべきであろう。建築の分野でそのことをわたしたちに教えてくれたのは、そのあまりにも早い死が惜しまれる「ヴェネツィア派」の論客、マンフレード・タフーリであった。そして、中谷礼仁の本書が幸運にもまた、あらためてそのことをわたしたちに気づかせてくれた。
岡田温司未來社『未来』2006年7月号

注意深く、丹念に書かれた文章ながら、なんかこう、新鮮で生き生きとして見えるのは、おそらく著者自身の「驚き」を伴っているからだろう。また、本書全体に通底している、著者の「連鎖する事物」への(中略)畏敬の念には心を打たれる。自覚的に何かを作ることを志しているつもりの、私たちの多くに欠落しているのは、すでにある事物へのこうした態度なのだった。」
石川初TENPLUSONE WEBSITE

「現在の建築論や都市論には関係者の当を得た解説が少なくないが、どうしてもここから先は当事者や専門家にまかせざるを得ない、という部分が残る。これらの書物は、たとえ子供向けに書かれたものでも、それゆえに難解なのだ。「強い」専門性の石を砕く「弱い」実際的思考に貫かれた本書は、だから分かりやすくなによりもおもしろい。
植田実雑誌『文学界』2006年7月号

「本書は、事物—つねに痕跡でしかない事物—に向かい合ったとき、言葉でなにをなしうるかを改めて教えてくれる書物でもある。本書と前後して邦訳が刊行されたエイドリアン・フォーティーの『言葉と建築—語彙体系としてのモダニズム』はちょうどこの、建築について語るということはなにをしていることになるのかという古くてつねに新しい問題を扱っているが、中谷氏の書物はまさにその問いに対するいくつかの回答を示したものである。」
山本貴光作品メモランダム

未來社『未来』2006年7月号に岡田温司さんによる共感あふれる書評をいただきました。(20060703)
TENPLUSONE WEBSITEにランドスケープ・デザイナー石川初さんによる書評が掲載されました。深い読みを自分の体験にも照らし合わせて書いていただきました。 (20060627)
雑誌『文学界』2006年7月号に植田実さんによる書評が掲載されました。次第次第に社会に理解されていただいているようでうれしいです。 (20060608)
作品メモランダムの山本貴光さんに的確かつ連鎖的な評をいただきました。 (20060216)

また口絵にはセヴェラルネスの思想を端的にかつ寓意的に語る歴史的な豪華写真群を掲載しています。60年代の幻の写真同人誌 『PROVOKE』 に掲載された高梨豊さんによる”あの写真”も、収録しました。高梨さんご本人によって注意深く選定された新プリントを大変な好意で借用させていただきました。ぜひご覧ください。




連載中
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●ワンダリング・セブンティーズ(新建築社『住宅特集』)→途中で終わり

●『日本の民家』再訪(瀝青会名義/季刊『住む。』
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過去のアーカイブ(より抜き)
2004年以降のものはmoduleに投稿しています。出来のいいものは掲載していただいております。

お台場公園の攻防 1995
すまいの先生 2001
現場日記 1997
バブル・震災・オウム教 1995
旧満州国の伊東忠太 1996
平内廷臣はいかにして日本建築を終わらせたか
1998
ステンレスのバケツ
1999
住まいは誰のものか
2001
内田百間「東京日記」論 1996
戦後建築史学の射程と現代建築史研究会研究の早急なる必要性
2001
亀裂の保存 中村達太郎『日本建築辞彙』を読む
2000
歴史の中のコンバージョン
2002
空飛ぶアーカイブ
2002
都市は連鎖する
2003
デ・レ・メタリカ(金属について) 2004
宇宙人とバラック 2004
歴史の合成に関するノート 2004
おれにやらせてくれ、ビリー  ガーデン・パーティーの奇跡(ビリー・クルーヴァー論) 2004
「1パーセントについて」『村野藤吾著作集』書評 2008
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最近の記事20
建築雑誌2010・7月号 No.1606『建築写真小史』届く
あまりにも緊急告知・滅多にない書容設計家 羽良多平吉の会/開催のお知らせ(有料)
緊急告知・日本建築学会会誌『建築雑誌』10月号 公開座談会―斎藤公男×中川 武×藤森照信
建築雑誌2010・6月号 No.1605『われらの庭園』届く
建築雑誌2010・5月号 1604『特集 BOSAI立国ニッポン』届く
講演会のお知らせ・Note on "fig-ness" of architecture, イチジクの葉っぱ建築論ノート・5月20日千葉大学にて
建築雑誌2010・4月号 1603『特集 〈郊外〉でくくるな』届く
瀝青会報告第八回・雪に埋もれる山の村の家その後・雑誌『住む』No.33
日本生活学会 第37回総会・シンポジウム・研究発表大会のお知らせ・2010年5月8日(土)
建築雑誌2010・3月号『ナイーブ・アーキテクチャー』届く
建築雑誌2010・2月号 1600記念号『特集 建築・有象無象』届く
設計演習A「役に立たない機械」『タモリ倶楽部』に登場しました。
建築雑誌2010・一月号『特集 検証・三菱一號館再現』届く
今和次郎のバラック写真集成『グラフィカ』No.3
瀝青会報告・浜辺のブリコラージュ(越後の舟小屋)
監修・『住宅建築』2010年1月号・白井晟一を探して -Constellation-
新連載・「イチジクの葉っぱ建築論」・雑誌『d/sign』No.17 デザインと編集力
論文・「ナンドの生産性−化モノ空間のための補遺」
中谷ゼミナールのポータルサイト、デザイン一新しました。
3年後ものこっていた・韓国ソウルの北村のゲストハウスの思い出・2009年9月27日
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